関東、温泉と旅行記 | 長野市、松本、上田方面 | |||||||||||
篠ノ井追分宿で北国西街道と合流した善光寺街道筋(北国街道)は県道77号線を東方向へ進み見六橋交差点で県道沿いに一旦北方向へ曲がりその先のY字路で県道から離れ丹波島へ向かっていました。 | ||||||||||||
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新田共同井戸 | ||||||||||||
Y字路から善光寺街道(北国街道)筋を進み「篠ノ井布施高田」地区に入ります、そこから街道筋は県道385号線と交差路を過ぎて100m程進んだ十字路を北方向へと曲がります、十字路から先の街道筋は丹波島宿まで一直線です。川中島駅交差点を過ぎて更に進むと新田地区に入ります、此処の新田共同井戸は1877年(明治10年)に新田地区23戸の為に掘られた井戸で1955年(昭和30年)まで使われていたと云います。 | ||||||||||||
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浄生庵 | ||||||||||||
丹波島宿に入る少し手前に立派な御堂が建っています、「浄生庵」と称され1722年(享保7年)江戸からこの地を通り何処かへ地蔵菩薩像を運ぶ途中にこの場所で根が生えた様に動かなく成ったと云います、これを地蔵菩薩の御導きと捉えて此処へ安住させる事にきめました、その後1748年(寛延元年)に御堂が建立されています。 | ||||||||||||
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於佐加神社 | ||||||||||||
丹波島交差点を過ぎた先の左側に於佐加神社が在ります、此処、於佐加神社が丹波島宿の西口です、 於佐加神社は丹波島宿の鎮守で宿場開設後の1662年(寛文2年)に諏訪川原より移設されました、社内には秋葉社、弥栄社、三峰社、天満社、金毘羅社、住吉社、新津権現、道祖神、庚申塚の9社が祀られています。 於佐加神社の前で善光寺街道(北国街道)筋は東方向へ曲がり「鉤の手」状の路地を形成しています。 |
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( 於佐加神社の鳥居から連なる宿場の町並) | ||||||||||||
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丹波島宿問屋場、高札場 | ||||||||||||
宿の中程に高札場が有り、その直ぐ隣の冠木門の家屋が丹波島宿の問屋場「柳島家」でした、柳島家は宿開設から幕末に至るまで継続して問屋場を務めていました。 | ||||||||||||
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丹波島宿本陣 | ||||||||||||
問屋場から50m程先に「明治天皇御小休所」の碑が立っています、此処が丹波島宿本陣跡です、問屋場と同じく柳島家が務めていました、柳島家は元々甲斐武田氏の家臣で太郎左衛門政雄の代に丹波島宿の開設と本陣、問屋場を委任されました。 丹波島宿の北を流れる犀川は毎年千本ほど鮭、鱒が獲れたといいます、ここ丹波島宿本陣から毎年の初鮭が加賀藩前田家に送られていました。 |
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松代道との追分 | ||||||||||||
本陣の街道を挟んだ向かい側が松代道との追分でした、矢代宿で善光寺街道(北国街道)筋から分かれた松代道は此処で合流していました。 | ||||||||||||
松代道は松代城の城下で更に川田、牟礼宿へ向かうルートと此処、丹波島宿へ通じるルートに分かれていました。 | ||||||||||||
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丹波島の渡し | ||||||||||||
(北方向へ曲がる街道筋) | (丹波宿北口の枡形) | |||||||||||
本陣から300m程先で善光寺街道(北国街道)は北方向へと曲がっていました、その曲がった先で現状道路が緩やかにカーブしています、此処が丹波宿の北口で枡形の小口となっていました。 | ||||||||||||
この枡形は犀川沿いの堤防に設置された枡形で此処を過ぎると丹波島の渡し場でした。 | ||||||||||||
(丹波島の渡し場) | ||||||||||||
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善光寺街道 | ||||||||||||
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