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(庚申山) |
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神流川を渡った鎌倉街道上道は上野国へ入ります、上野国へ入るとすぐに十石街道と交差します、十石街道は藤岡から鬼石、十石峠越えて信州へ抜ける江戸期の主要街道です、更にそこから鎌倉街道上道は庚申山の麓へ向かっていました。 |
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美九里東小学校の校庭 |
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神流川を渡り1km程街道筋を進むと藤岡市立美九里東小学校の校庭へ出ます、鎌倉街道上道はその校庭を通りねけていました、校庭の大木は街道のすぐ脇にあったものだそうです。 |
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土師神社 |
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街道から外れて小学校西側の道路を北へ向かいます、土師神社が在ります、土師神社には土師の辻と云う野外相撲の土俵が在り摂津国の住吉神社、能登国の羽咋神社と並ぶ日本三辻の一つに数えられ出世力士の披露図相撲が行われていました、土俵の高さは160cmあります。 |
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土師神社脇の道標 |
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美九里東小学校の西側から土師神社に向かう道路は古代からの街道筋であったそうで道路脇には道標が幾つか立っています。 |
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埴輪窯跡 |
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土師神社から北へ300m程進むと古代の埴輪窯跡があります、埴輪窯は斜面に長さ5,5m幅1,8mに掘られています、古代の埴輪職人は土師部と言われこの辺り一帯を土師郷と呼んでいました、土師神社は郷内に居住する土師部によって奉納されたそうです、付近には大小古墳が点在しています。 |
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(埴輪窯近くの円墳) |
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街道筋の道標群 |
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美九里東小学校まで戻ります、校門前に古い石碑が並んでいます、鎌倉街道は校門辺りから校庭を抜けて西方向へ直進していました。 |
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蓮生の池 |
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街道筋を更に西に進むと街道より少し北に蓮生の池があります、この池昔は今よりも大きく街道脇まで広がり馬の足洗場と成っていたそうです。 |
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十石街道 |
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蓮生の池のすぐ西側は県道13号線で江戸期の主要街道十石街道です、鎌倉街道上道は此処で交差しています、十石街道は高崎市新町で中山道と合流して反対は鬼石、十石峠、信濃佐久へと通じていました、街道の交差路から300m北に「右中山道新町街道、左鬼石町万場村十石峠」と掘られた道標が立っています。 |
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庚申山麓の街道筋 |
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(麓の街道筋脇の庚申塚) |
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十石街道の交差路から先の鎌倉街道筋は庚申山の南の麓を通り抜けています、街道は少し高台に通されています。 |
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百番供養塔 |
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高台を通る街道筋の南側、街道筋の下手に曹洞宗龍田寺が在り近くに百番供養塔が立っています、百番供養塔は巡礼者が秩父などの100礼所を巡拝したのを記念して立てたと云われ一般に村落などに邪気を寄せ付けない事を目的としています、石碑には天明2年とあり丁度碑が立てられた年は天明の飢饉の年で更に翌年の3年には浅間山が大噴火しています、飢饉で飢餓に見舞われ次の年には火山の噴火が起きてこの付近の村々は地獄の様な状況と化していたのでしょう。 |
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庚申山 |
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(山頂から藤岡市街を遠望) |
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庚申山の山頂へ登ってみます、街道からの登り口は案内版があり分かり安いです、庚申山は標高約190mの小高い丘で山頂には展望台他に庚申塚、道祖神が多数並んでいます、山頂からの遠望は大変よく物見山とも呼ばれていました。 |
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(1860年(安政7年)に立てられた庚申塚) |
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1860年(安政7年)の大きな庚申塚があります、安政年間は南海トラフの影響で伊賀上野、東海、南海、豊予海峡、飛騨、江戸、陸奥とわずか数年間(安政元年~安政5年の5年間)に巨大地震とそれによる津波が連発した時代でそれら天変地異を諌める為山頂に大きな庚申塚が置かれたのかも知れません? |
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鎌倉街道上道 |
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