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(倉賀野古墳群) |
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山名八幡宮の先で合流した二方向の鎌倉街道上道は県道30号線沿いに高崎商科大学付近へ進みそこから烏川を渡り下佐野へ通じていました、下佐野からは高台に街道筋が通されていました、また高崎商科大学から根古屋町を抜けて烏川の上信電鉄高架付近で対岸に渡る道筋も存在していました。 |
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下佐野の渡場 |
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(県道30号線沿いの鎌倉街道上道、 烏川の渡場、) |
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鎌倉街道筋は県道30号線沿いに進み高崎商科大学付近で大きく北東へ曲がり烏川を越えて対岸の下佐野へ向かいます、また高崎商科大学からそのまま県道30号線沿いに根古屋町を抜けるルートも在りました。 |
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根古屋城と根古屋宿 |
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烏川対岸の下佐野に渡ると根古屋町の集落が一望できます、商科大から分かれた街道筋はこの根古屋町を通っていました、集落背後の中央の山は武田信玄により築城された戦国期の要害根古屋城です、元来根古屋町の根古屋とは寝小屋と書いて城の家臣団の寝泊りする集落、居住区を指しています、謂わば根古屋町は根古屋城の家臣団とその家族が居住する宿所、町でありました。 |
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高台の街道筋 |
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下佐野の街道筋は渡場から北西方向へと曲がります、この辺りの街道筋は烏川の増水を意識してかいささか高台に通されています。 |
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倉賀野古墳群 |
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下佐野の街道筋から北西500mの地点に倉賀野古墳群が在ります、浅間山古墳、大鶴巻古墳、小鶴巻古墳の三つの巨大古墳を中心とした古墳群で大凡4世紀末~5世紀にかけて造営されたと考えられています。 |
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(浅間山古墳) |
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浅間山古墳は太田天神山古墳に次いで県内第2位の規模を誇る全長172mの巨大古墳です、墳丘全面に葺石が施され前方部が3段、後円部2段で2重の堀に囲まれその堀の間の堤にも葺石が施された豪華な墳丘です。 |
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(大鶴巻古墳) |
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浅間山古墳から南東500mに位置する大鶴巻古墳は全長123m上下2段の前方後円墳で全面に葺石が施されています、群馬県内には浅間古墳、白石稲荷山古墳、七輿山古墳、太田天神山古墳などの巨大古墳がなぜ集中しているのでしょうか?一節に4世紀頃の群馬、栃木県は上毛野国、下毛野国で2カ国合わせて両毛(毛野国)と呼ばれていました、毛野国とは毛物の様な人の土地と云う意味で当時の縄文人系民族である蝦夷人の住む土地を意味していました、大和王権は開発遅れる毛野国に遠征軍を派遣し蝦夷人を討伐した後に上毛野国に上毛野氏を配置して東国支配を委託します、それ以後関東方面は事実上大和王権の植民地と成り上毛野氏とそれに従事した有力豪族が群馬県一帯に巨大古墳を造営したとも言われています。 |
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(小鶴巻古墳) |
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浅間山古墳と大鶴巻古墳の中間に位地する小鶴巻古墳は浅間山、大鶴巻古墳と比較すると小ぶりな墳丘墓に見えますが全長86m、2段構成の前方後円墳で比較的規模の大きい古墳です。 |
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放光寺跡 |
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高台の街道筋を北西へ進むと放光神社の祠が在りその脇に放光寺跡の碑が立っています、放光寺は此処から南方3km程の山名城の尾根づたいの日本最古の墓碑とも云われる山ノ上碑の建立者である僧長利の寺です、また大和王権時代は佐野付近が朝廷の直活地である屯倉(みやけ)で放光神社は佐野屯倉の氏神でした。 |
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定家神社 |
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放光神社から道なりに進み上越新幹線の高架をくぐると定家神社が在ります、定家神社は鎌倉初期の歌人藤原定家を祭神としています、定家は「新古今和歌集」、「新勅撰和歌集」の選出者を務めた鎌倉期を代表する歌人です。 |
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(社内の古墳) |
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定家神社内には10m程の円墳と30m程の前方後円墳があります、これら社内の古墳の存在から定家神社そのものは鎌倉期以前に建立されたのかも知れません。 |
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常世神社 |
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鎌倉期の武士佐野源左衛門常世は一族に土地を横領されこの地に仮の屋敷を建て住み着きました、ある雪の日に修行者に扮装した幕府執権北条時頼が一泊の宿を頼み常世は生活苦の為に秘蔵の盆栽の鉢木を焚いてもてなしました、この事で常世は時頼から感謝状受け横領された土地も返還されます、常世神社は源左衛門常世の仮住まいの在った場所です。 |
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鳥川の渡場跡 |
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(烏川、 渡場跡にかかる木造の橋) |
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常世神社から上越新幹線の高架沿いに進むと木造の橋がかけられています、烏川対岸の根古屋町を抜ける街道筋はこの橋の辺りで川を渡りこちらの街道筋と合流していました。 |
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佐野の船橋歌の碑 |
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(船橋歌の碑の前の鎌倉街道筋) |
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街道筋脇に「かみつけの佐野の船はしとりはなし、親はさくれどわはさかるがへ」と万葉集巻十四東歌の一首が刻まれた碑が立っています、この碑は1827年(文政10年)高崎新町の延養寺住職良翁が刻んだもので鳥川の船橋に立てられていました、その船橋に伝説があり昔鳥川挟んだ両岸の村の長者達に娘と息子がいて二人は恋仲となり船橋渡って密会していました、長者は二人の仲に反対して船橋の板を外して密会を妨げようします、二人それを知らずに船橋を渡り川に落ちて溺死してしまいました。 |
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街道筋の道標 |
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船橋の碑から街道筋を進むと交差路があり「右高崎市内二通ズ、左山名ヲ経ヲ藤岡二通ズ」と刻まれた道標が在ります、この鎌倉街道筋と交差する道は上記の木造の橋付近で烏川を渡り対岸の根古屋町周りの鎌倉街道筋と合流していたのでしょう。 |
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交差路から200m程進むとY字路で鎌倉街道筋は左側の道となります、Y字路から100m程先に石碑と「秩父巡礼の道しるべ」と書かれた道標が立っています、高崎から秩父礼所巡りに行く際に巡礼者はこの道を通っていたのでしょう。 |
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琴平神社 |
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街道筋を更に進み上越新幹線の高架をくぐると琴平神社の前に出ます、古代この付近には古墳が多数点在していました、琴平神社の社殿も古墳上に造られています、また琴平神社境内で毎月10日に露天市が開かれるそうです。 |
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若松町と光明寺 |
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(若松町交差点と光明寺) |
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琴平神社から先の鎌倉街道筋は北上して若松町へ出ます、そこから弘法大師高崎霊場六番の光明寺の東沿いを通り抜けて高崎城(江戸期)の三の丸南端付近に達していました。 |
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高崎城 |
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光明寺過ぎると鎌倉街道上道は高崎城三の丸南門付近で外堀に突き当たります、烏川を西の堀とする高崎城は徳川家康の関東入府後に井伊直政により築城されました、それ以前に和田城と云う城が在り高崎城はその跡地に新規築城された城で近世の城郭と成っています。 |
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(高崎城三の丸南門) |
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此処から先の鎌倉街道上道は中山道と合流してそれとほぼ同じルートと成っています。 |
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鎌倉街道上道 |
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(中山道高崎宿) |
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