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(山名城) |
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庚申山から先の鎌倉街道上道は白石へと向かいます、白石に入る手前で北上して鏑川を渡り上信電鉄の山名駅付近を通る道筋と北西に反れて鏑川を渡り上信電鉄西山名駅へ向かう道の二方向に分かれていました、双方向とも山名駅の先で合流して高崎へと向かっています。 |
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北西方向へ向かう街道筋 |
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一方の街道筋は北西方向へ延びて鏑川沿いの三ツ木へと向かいます、この辺りは幾つかの街道筋が交差していたのか道路の交差路付近の街道脇には庚申塚が置かれています。 |
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吉良上野介陣屋跡 |
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国道254号線に出ます、道路沿いに吉良上野介陣屋跡の立て看板が在り道沿いに進むと忠臣蔵で有名な吉良上野介の陣屋跡の案内版と碑が在り近くには上野介の出産の時に産湯を汲んだ井戸が保存されています、吉良家は1650年(慶安3年)~1703年(元禄16年)まで館をつくりこの地を領有していました、、領主吉良若狭守の正室が伊香保温泉へ湯治に行った帰路この館に立ち寄り上野介を出産したそうです。 |
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(上野介出産の際産湯を汲だ井戸) |
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鎌倉街道上道は此処吉良家の陣屋前を通り抜けていました。 |
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(陣屋前の鎌倉街道筋) |
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鏑川の渡し場 |
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吉良上野介陣屋から街道は北上して三ツ木へ向かいます、此処から鏑川を対岸の岩井へと渡ります。 |
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西山名駅の脇を抜ける鎌倉街道上道 |
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(左写真中央の山の掘割状の道筋) |
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鏑川を渡りそこから街道筋は河川沿いに南東へ向かい上信電鉄西山名駅の脇を抜けて左写真中央の山の山頂を越えています、山頂付近は掘割状の道筋に成っていた様です。 |
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山沿いの高台を通る街道筋 |
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山頂を越えると街道は山沿いの高地をまた南東へ向かって通されています、この街道筋の北側は谷間と成っています。 |
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山名城 |
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(街道筋から見た山名城) |
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北側の谷間を挟んだ対面の山は山名城です、1467年(応仁元年)に勃発した応仁の乱の山名氏は此処上野国多胡郡山名郷を発祥地としています、山名氏の祖山名義範は源義家の孫の新田義重の子で源頼朝に従事してこの辺り一帯を収める鎌倉御家人と成りこの地に館を築ました、その後山名氏は八代居住し南北朝期に足利尊氏に従い山陰地方に勢力をはります、戦国期の山名城は武田氏、滝川氏、北条氏と持主が変わり1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐の後に廃城と成ります。 |
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(山名城主郭物見台) |
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この山の南方の尾根上には日本最古の墓誌山ノ上碑が在ります、近くの山ノ上古墳の墓誌と云われてます。 |
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白石稲荷山古墳 |
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もう一方の北上して上信電鉄山名駅に向かう道筋を進みます、こちらの鎌倉街道筋は白石古墳群、山名古墳群の合間を抜けています、古代群馬県の古墳の数は全国で最も多く高崎周辺は古墳群の宝庫と成っています。 |
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鎌倉街道筋を北上すると鮎川の段丘上に全長175mの巨大な前方後円墳白石稲荷山古墳が見えてきます、鎌倉街道上道はこの古墳の西側に通されています、前方部、後方部共に上中下3段の造りで上二段には葺石が施され前方部の先端は東側のみ長く延びているのが特徴であり5世紀前半に造られたと云われています。 |
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稲荷山古墳の東側の鮎川の対岸には20m前後の倍墳が多数見られます。 |
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皇子塚古墳、平井地区1号古墳 |
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稲荷山古墳から北に500m程の高台に皇子塚古墳と平井地区1号古墳が在り街道は古墳の西を通っています、皇子塚古墳は半径31mの円墳で6世紀後半に完成して7世紀前半に埋葬が行われました、平井地区1号古墳は6世紀後半に造られた半径24mの円墳です、両墳共に葺石が施されていました、それら古墳以外に2基の円墳が見られます。 |
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七輿山古墳 |
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鎌倉街道上道は皇子塚の在る高台を下ります、下り切った平地に全長146mの巨大な前方後円墳の七輿山古墳が在り街道筋はこの古墳の前方部の東側を南北に延びています、七輿山古墳は3段構成で下から最上段まで全て葺石が施され2重の堀(一節には3重)を巡らし堀と堀の境目の堤には2基の造出しが在った事がわかっています、完成年代は6世紀前半、現状前方部が大きくえぐられた状態で五百羅漢が安置されていますが何故か首から上が無くなっています?? |
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(七輿山古墳の前方部東側を通る鎌倉街道上道) |
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七輿山の云われは8世紀初め多胡郡の郡司と成った羊大夫が謀反の疑いをかけられ朝廷からの討伐を逃れるため一族は四散して逃走し此の地で合流しました、時に妻、女子らが自害しコシに乗せられたまま古墳近くで葬られた事からナナコシ山の名前の由来と成りました、七輿山古墳周辺の地名が落合と云うのも羊大夫らが此処で落ち合った事が地名の発祥と成っています。 |
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宗永寺 |
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(宗永寺参道、 宗永寺内の舟形石棺) |
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鎌倉街道筋を挟んだ七輿山古墳東側に七輿山宗永寺が在りその寺内に全長50m程の前方後円墳、宗永寺裏東塚古墳が保存され寺内にはその古墳に安置されていたと考えられている舟形石棺が在ります、群馬県内では舟形石棺の出土は大変珍しく考古学上に貴重な遺物と成っています。 |
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(宗永寺裏東塚古墳) |
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伊勢塚古墳 |
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街道は県道174号線を越えて鏑川の渡し場へと向かいそのに途中半径27mの八角墳伊勢塚古墳が在り街道筋はこの古墳の東を抜けています、伊勢塚古墳は6世紀後半に造られた古墳で八角形の形状をして石室側面は模様積みの石壁で上面は一枚のドーム状の天井石で支えています、全体的にとても景観の良い造りになっています。 |
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6世紀の後半頃には大和王権の勢力が徐々に全国へ波及します、それ故に各地方の小国家の国王の象徴である巨大古墳の造営に少しづつ規制がかけられて行きます、大和王権は国王は天皇ただ一人としたかったのでしょう、以後古墳の規模で競争し合う時代から古墳の景観制が重要視される様になります。 |
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山名古墳群 |
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(前方後円墳山名伊勢塚古墳) |
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鏑川を渡ると鎌倉街道筋は山名古墳群の中を通ります、山名古墳群は古墳時代末期の6世紀~7世紀に形成された古墳群で現在全長65mの前方後円墳山名伊勢塚古墳と帆立貝形古墳1、円墳17の19期が保存状態となっています、山名古墳群の一族は大和王権が設立した地域支配の拠点佐野三家の管理者であったと云います。 |
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上信電鉄山名駅 |
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鎌倉街道上道は山名宿へ入ります、山名宿は500m西の山名城の城下集落で尚且つ山名八幡宮の門前町として栄えていました、1897年(明治30年)には上野鉄道(現上信電鉄)開通と同時に山名駅が開業します、鎌倉街道上道は此処山名駅のすぐ西側を南北に延びています、上野鉄道は富岡製糸場の三井財閥への払い下げに伴い設立時に三井財閥の資本が大きく関わっていました。 |
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(山名駅に到着する電気軌道車デキ) |
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山名八幡宮 |
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山名駅に隣接する山名八幡宮は応仁の乱の首謀者で知られる山名宗全の祖山名義範により建立されました、社内には1600年(慶長5年)馬庭念流樋口定次が天真流村上天流との試合の際に木剣で割ったと云われる「たちわりの石」が在ります、また同社の神馬像は全国山名氏の末裔達が奉納したもので頭は西国を向いているそうです。 |
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(たちわりの石) |
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北と北西の二方向に分岐して鏑川を渡った鎌倉街道上道は山名八幡宮付近で合流していました。 |
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鎌倉街道上道 |
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