(堀兼神社前の堀兼道)
鎌倉街道上道本道は現西武新宿線新所沢駅南で上道本道とその支道の堀兼道とに分岐します、両街道筋共に狭山市内を縦断し上道本道は日高市高萩へ向かい堀兼道は狭山市堀兼を経由して狭山市柏原の城山砦または川越市上戸の河越氏館へと繋がっていました(その先は不明?)。
鎌倉街道上道本道
鎌倉街道上道本道は所沢市内から狭山市内へと入り日高市高萩へと向かいます。
入間野神社
西武新宿線入曽駅から県道50号線(上道本道)を北へ400m程進むと左手に入間野神社が見えてきます、1191年(建久2年)に創建されたと伝えられています、大凡鎌倉街道が整備された時代と同じ頃に建てられたのでしょう、毎年10月15日に入曽の獅子舞が奉納されます。
七曲の井
入間野神社を超えて不老川を渡ると観音堂が在りその裏手に七曲の井が存在します、この井戸所謂まいまいず井戸で水源の深い場所ですり鉢状に掘り込んだ底に井戸を掘る方式です、飲料水を確保するのが困難な武蔵野の台地ではこの様な工夫がなされていました、すぐ脇を不老川が流れていますが雨量が少ない時など涸れてしまう為に必要であったそうです、直径約12m、深さ約7mで堀兼の井とも呼ばれ土地の名前も堀兼井と成っています、此処から2,5km東の堀兼道沿いにも同様に堀兼の井と呼ばれるすり鉢状の井戸が在ります。
(七曲の井断面図)
八丁の渡
入間川の渡し場で八丁と呼ばれる事から大凡その幅が八丁(800m)あったのでしょう、奈良期の古代街道の時代から入間川の宿場が在り鎌倉街道整備後は府中の宿場と並び軍事、交易共に重要な宿場と成ったそうです。
堀兼道
西武新宿線新所沢駅の南で鎌倉街道上道本道から狭山市堀兼に向かい堀兼道と云われる支道が分岐していました、堀兼道は狭山市堀兼を越えて三ツ木原の古戦場址(西武新宿線新狭山駅付近)の手前で狭山市柏原の城山砦方面に向かう道筋と川越市上戸の河越氏館方面へ向かう道筋に更に分かれていました。
堀兼神社
日本武尊が東北の蝦夷征伐の帰路この地に立ち寄ったところ土地の人達が早害に悩まされていた為に富士山に祈願するとたちまち清水が湧き出てきたので土地の人達が浅間神社を創建したのが堀兼神社の由来と云われています、その伝説を裏付けるかの様に境内には堀兼の井と伝えられるすり鉢状に深く掘り込んだまいまいず井戸が在り武蔵野で水を確保する事がいかに困難であるかを物語っています。
堀兼の井
堀兼神社の境内に在るすり鉢状に掘り込んだ井戸で江戸期の頃にこの様な井戸が堀兼に7、北入曽に3、堀兼新田に2、南入曽に2、合計14箇所あったそうです。
三ツ木原の古戦場址の碑
西武新宿線新狭山駅近くの三ツ木公園内に三ツ木原の古戦場址の碑が立っています、1537年(天文6年)北条氏綱は川越城を攻略せんと扇谷上杉朝定の軍勢と此処三ツ木原から川越にかけて激突したのです。
堀兼道は三ツ木公園南で狭山柏原方面と川越上戸方面に向かう道筋にに分かれます。
鎌倉街道上道
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