関東、温泉と旅行記 |
木曽方面 |
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中山道筋は奈良井宿から薮原宿を越えて宮ノ越宿に入ります、宮ノ越宿は1843年(天宝14年)に人口585人、家屋137軒、本陣、脇本陣ともに1、旅館21軒で上町、本町、中町、下町の4町で成り立っています。 |
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義仲館 |
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JR宮ノ越駅から木曽川を越えて西岸に渡ると義仲館が開館しています、平安末期この辺り一帯は木曽義仲公の館であったとされその義仲公にちなんで建てられた資料館です、義仲公は帯刀先生(源義賢)の次男として現埼玉県比企郡嵐山町の大蔵館に生まれますが2歳の時に父義賢が大蔵の合戦で源義平に破れこの地に逃れていました、その後平家討伐の功績により朝日の将軍の称号を賜わりましたが源範頼、義経に破れ31歳の生涯を終えています。 |
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徳音寺 |
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(徳音寺) |
(さざれ石) |
義仲館の奥には木曽義仲と一族の菩提寺である徳音寺があります、徳音寺には義仲とその世話役女で女武将である巴御前の墓が安置されています、その徳音寺の正面の池には石灰岩が分離凝固した県の天然記念物の「さざれ石」が置かれてます。 |
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木曽川 |
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木曽川へ戻り義仲橋を渡ると県道267号線へと出ます、この267号線が旧中山道で此処から200m程木曽川沿いを進むとY字路となりその先が本町です。 |
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宮ノ越宿本陣跡 |
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本町に入り100m程進むと左側に本陣跡の碑が建っています、宮ノ越宿本陣は宿がおかれた1601年(慶長6年)から宿駅が廃止された1870年(明治3年)まで本陣、問屋場を兼任で務めていました、その石碑には江戸へ66里35町、京へ68里21町と刻まれています。 |
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脇本陣跡 |
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本陣から50m程先に脇本陣がおかれていました、この脇本陣も本陣同様に問屋場を兼任していました。 |
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(問屋場) |
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中町 |
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脇本陣跡から更に進むと中町に成ります、中町には現在も旧家屋、旧旅館などが数軒並んでいます、その中の旅館田中屋は明治16年の大火により焼失しましたが持ち出した家具や隣村の建物部材などを使い建て替えられたと云います。 |
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(旅館田中屋) |
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明治天皇の御膳水と石碑群 |
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旧旅館街を過ぎると明治天皇の御膳水と呼ばれる井戸が在ります、この井戸は江戸末期に掘られ昭和初期まで使用され1880年(明治13年)の明治天皇の巡幸の際にこの井戸の水で茶を出したと云います。
井戸から50m程先には十三夜塔などの石碑群が並んでいます。 |
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一里塚跡 |
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石碑群か1km程、県道267号線(中山道)を進むと一里塚跡の碑が建っています、下馬の一里塚と呼んでいたそうです。 |
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林昌寺 |
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中山道は原野へと向かいます、街道筋から離れた国道沿いに木曽義仲を養育した中原兼遠が開基したとされる林昌寺が建っています。 |
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原野村 |
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原野村は宮ノ越宿と福島宿の間の宿で古い旅館が建ち並んでいます。 |
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石碑群と原野八幡 |
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(原野八幡) |
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原野村の外れに古い石碑群が在りその少し手前から原野駅に向かい駅の反対側へ出ます、そこには1597年(慶長3年)に木曽義昌が豊臣秀吉の命で下総に移封の際に木曽家の家臣達が原野村の氏神として建立した原野八幡が祀られています。 |
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中山道 |
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