関東、温泉と旅行記 |
木曽方面 |
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(本山宿口留番所) |
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中山道の32番目の宿場町である本山宿は蕎麦切の発祥地として知られています、1705年(宝永2年)編集の森川許六の「風俗文選」に(蕎麦切というは、もと信濃国本山宿より出てままねく国々にもてはやされける。云々」とあります、また日本最古の蕎麦切の記録としては本山宿より7つ南の中山道筋の宿場「須原宿」の定勝寺に残っています、1574年(天正2年)に定勝寺修復落成を祝して蕎麦粉一袋が奉納されそれを「金永」なる人物が蕎麦切にして振舞ったと云われています。
1843年(天保14年)の本山宿の人口は592人、家屋117軒、旅館34軒、本陣と脇本陣が1軒づつで当時の街道筋の宿場としては中級規模の宿場でした。 |
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下町石造群 |
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本山宿(下町)の北口付近に秋葉権現の祠がありその脇に道祖神、庚申塚、石仏などの石造群が建っています、此処から600m程南へ進むと中町で卯建を掲げた旧旅館などが点在しています。 |
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国登録有形文化財、川口屋、池田屋、若松屋 |
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中町に入ると国登録有形文化財の旅館川口屋、池田屋、若松屋が並んで建っています、出梁造のこの3軒の旅館は1869年(明治2年)の本山宿大火でいったん消失してその直後に再建されました。 |
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本山宿本陣跡 |
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川口屋、池田屋、若松屋の丁度正面が本山宿本陣となります、1861年(文久元年)徳川14代将軍家茂と皇女和宮との婚姻の為に上方一行は江戸へ赴きます、その途中本山本宿陣は和宮の宿泊地となりました、時に上方、江戸方、松本藩の警備、助郷人足など総勢8万人が4日間にわたり本山宿を通行したと云います。 |
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下問屋場 |
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本山宿本陣の直ぐ隣は下問屋場です、この下問屋場は本陣の小林家が兼業で勤めていました。 |
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上問屋場、脇本陣 |
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本陣、下問屋場の西側は脇本陣、上問屋場です、脇本陣、上問屋場は兼用で小野家が勤めています、上下問屋場は月の上15日が小野家上問屋、月の下15日が小林家下問屋が受け持っていました。 |
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本山口留番所 |
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本山宿の南口に口留番所が設けられていました、本山口留番所は謂わば松本藩の私設の関所です、口留番所とは東海道箱根関所、甲州道小仏関所の様な幕府指定の関所とは異なり各藩独自で治安維持、特産品の不当な流失を防ぐ為に設立されます、此処本山口留番所では女人の通行(出女)の監視と年貢徴収前の米の横流し(松本藩外への米の流出)防止の為の監視を主に業務としていました。 |
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長久寺、常光寺跡
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口留番所の少し南の高台に廃寺となった長久寺、常光寺がありましいた、1868年(慶応4年)戊辰戦争の最中に松本藩主戸田光則は長久寺で官軍の東山道総督岩倉具定より朝廷への服従を求められましたが返答の遅れから3万両の軍資金と兵糧、出兵を要求されました。 |
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本山八幡社 |
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長久寺、常光寺跡の上手に本峰造の社殿の本山八幡社があります、本山宿の鎮守で祭りには屋台車が町をねり歩くと云います。 |
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高札場跡と秋葉大権現 |
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宿南口から30間ほど南に高札場が建てられていました、1830年(文政13年)に秋葉大権現が此処に建立され1869年(元治6年、改元により明治2年)には秋葉常夜灯が設置されました。 |
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日出塩の一里塚 |
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(日出塩の一里塚と日出塩の集落) |
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本山宿から日出塩の集落へと向かいます、旧中山道は日出塩を抜けて贄川宿へと通じています、集落へ入ると直ぐに一里塚の跡があり「江戸より61里、京へ71里」と碑に書かれてます。 |
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贄川関所 |
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贄川宿の北端に忠実に再現された贄川番所の建造物があります、贄川番所は1334年(建武2年)木曽義仲の子孫「讃岐守家村」により創設されたのが始まりで1602年(慶長7年)に幕府の命により木曽路福島宿の福島関所副関として再建されました、その後1741年(寛保元年)に幕府の正式な関所となり1869年(明治2年)の廃関令まで存続したと云います。 |
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中山道 |
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