塩名田宿は千曲川の東岸にあります、当初塩名田宿は千曲川の往還を確保して川を挟んだ継立て業務を行う為に近隣村落より人が集められて成立しました、1843年(天保14年)の人口は574人で家屋116軒、旅館7軒、本陣2軒、脇本陣1軒でした。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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塩名田宿東口と塩名田神社 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
県道44号線と78号線が交差する塩名田交差点に中山道塩名田宿の碑が建っています、此処が塩名田宿の東口です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
交差点の北側に塩名田神社の参道口あります、塩名田神社は塩名田宿の鎮守で1673年(寛文13年)の正月に「山王権現社」として建立されました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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繭問屋上羽屋 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宿内に入ると「上、上羽屋繭問屋」の看板を掲げた旧家が見えてきます、明治以降には塩名田宿を中心にこの辺り一帯は養蚕業が盛んに行われていました、鉄道の開通などにより中山道筋の宿場の様相が変わる中で塩名田宿は繭の一大生産地として大きく転換したのです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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塩名田宿中町の街並 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
街道筋は中町へと入ります、本陣がおかれた中町とその近辺は塩名田宿の中心街で現在も格子窓の旧旅館や土蔵造の家屋が点在しています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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本陣善兵衛家址と小諸道 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(小諸道との交差路) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中町の入り口付近に本陣善兵衛家がありました、現在は商店となっています、その直ぐ隣で塩名田宿と城下町の小諸を結ぶ往還道が交差していました、中山道と北国街道(善光寺街道)を結ぶ連絡路です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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本陣新左衛門家と高札場 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
本陣善兵衛家址の斜め向かい側にもう一つの本陣の新左衛門家が建っていましす、御殿と呼ばれた上段の間以外はほぼ完全な状態で当時のままと成っています、塩名田宿は北国街道との連絡路が交差して人の往来も多く尚且つ難所の千曲川渡し場の河岸の宿である事から本陣が二箇所必要であったのでしょう。 本陣新左衛門家の脇に高札場が設けられています、この高札場は本来は宿場の中央に塩名田用水路が流れてそれをまたぐ形で置かれていましたが通行に支障がある為に此処へ移動されました。 |
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(用水路上に位地する高札場) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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塩名田宿最古の佐藤家住宅 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
本陣新左衛門家から道路の斜め向かいに塩名田宿で最も古い様式の佐藤家住宅が建っています、佐藤家住宅は塩名田宿に残る唯一の伝統的建築様式で玄関口より奥行きが長く造られているのが特徴です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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正縁寺と筆塚 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
佐藤家住宅から街道を西方向へ50m程進むと正園寺の参道が繋がっています、江戸期以前に現正縁寺の北方向に落合善光寺と称される寺があり合戦で消失してしまいました、江戸初期に「超誉一念和尚」によりこの地に正縁寺として再建されました、正縁寺は中山道中此処で亡くなった旅人も埋葬していました、寺内の墓碑には出身地、身分、死因などが記されて中には千曲川での事故死と記された墓碑もあります。 正縁寺門前には儒学者であった佐藤家により筆塚が建立されています。 |
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塩名田宿お滝通り | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正縁寺の先で中山道筋は二車線道路から反れて細い坂道を下ります、下りきった辺りに「塩名田宿お滝通り」の碑が設けられています、此処は昔「瀧大明神社」の境内でケヤキの大木が立ちその下から大量の湧水が流れ出ていたと云います。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
その湧水の流れていた所に十九夜塔が安置され休茶屋なども建っていました、またその湧水を利用して湯屋や鯉の養殖なども行っていました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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河原宿、料亭角屋 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(河原宿、 木造三階建の料亭角屋、) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お瀧通から千曲川河岸の町「河原宿」へ入ります、湧水の休茶屋址に木造三階建の角屋が建っています、国道が高台に開通すると川原宿の旅館などは国道からの出入りを考慮して三階建に改築したと云います。 塩名田宿が最大に活気を帯びたのは江戸期よりも明治中頃で二人の料理人が八幡宿より移転して角屋を料亭に新装改築してからでした、それ以後塩名田宿は川魚料理で一躍有名に成りました、もともと交通の要所であったので他の地域から開業移転する業者も多く志賀銀行や製糸工場などもこの頃に営業をはじめました。 |
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千曲川の渡し場 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(舟つなぎ石) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
川原宿を抜けると難所である千曲川の渡し場へ出ます、川沿いの50m北側には舟を繋いだ「舟つなぎ石」が今も残っています、石には舟を繋ぐ縄を通す穴が開いています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
江戸期はじめの頃は渡場には河石を橋桁とする渡橋が架けられていましたが水害により橋が流され舟渡となりました、その後明治に入り舟橋会社が設立され舟を繋いでその上に橋を架ける舟橋が架けられます、幾度の水害を考慮して直ぐに造り直せる舟橋としたのです、それ故に架け替え資金調達の為に舟橋会社を設立して有料通行としました、1931年(昭和6年)に現在の中津川橋が架けられるまで舟橋は利用されます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(明治期の舟橋、 昭和6年に架けられた中津川鉄橋、) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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中山道 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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