(和田宿本陣) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
和田宿は中山道の難所和田峠の入口で尚且つ隣の諏訪宿まで5里18丁(23km)もあった為に馬による荷物輸送が頻繁で伝馬役の家が70軒もありました、1843年(天保14年)の宿内の人口は522人、家屋126軒、本陣1、脇本陣2、旅館28軒でした。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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和田宿東口 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中山道は大和橋の先で国道142号線から離れそこから先国道と並行して和田宿へ向かいます、3km程進むと和田宿の石碑があり此処から和田宿に入ります。 石碑から北側を遠望すると物見山が見えます、和田宿が中世和田城の城下集落であった頃に山頂に物見の砦が在ったのでしょう。 |
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和田宿新田、八幡神社 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
和田宿は東口から原、新田、橋場、下町、中町、上町に区分けされていました、新田に入ると直ぐに八幡神社の祠があります、八幡神社は応神天皇を祭神として和田城の鬼門の方角に建立されました、現在の社殿は18世紀前半の構築と推定されています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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菩薩寺 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新田の西側の境に空也上人の弟子空了により開山された菩薩寺があります、ここから先が橋場となります。 宿場間の公的荷物輸送を請負う伝馬役は馬役と自分で荷物を背負い輸送する歩行役の2つ業務に分かれていました、下諏訪宿までの23kmの歩行役業務は賃金も安く重労働で人材が不足していました、そこで1713年(正徳3年)新田、橋場地区を和田宿に編入させてこの区域居住者を歩行役に定めたと云います。 |
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追川 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
和田宿内を抜ける中山道筋は追川を越えます、此処から下町で17世紀以前の宿場の東口になります。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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河内屋(歴史の道資料館) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
追川を渡る歴史の道資料館の河内屋があります、1861年(文久元年)の和田宿大火により消失しましたが幕府の公武合体政策により皇女和宮が江戸へ向かう途中に和田宿に宿泊する事となり急遽和田宿内の旅館を大々的に再建しました、河内屋もその時に再建されます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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下の問屋山木屋、大黒屋 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(下の問屋山木屋、 大黒屋、) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
河内屋の少し先に下の問屋であった山木屋がありその隣に安政年間より昭和初期まで穀物屋を開いてた大黒屋が建っています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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旅館たかき、穀屋 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(旅館たかき、 穀屋、) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
更にその先に二階正面が大きく張り出した出格子造の旅館「たかき」があり道路を挟んだ対面に土蔵造の穀屋があります。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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信定寺 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中山道筋を少し離れ旅館「たかき」の脇道を進むと信定寺の参門に突き当たります、信定寺は1553年(天文22年)に和田城主大井信定の菩提を弔う為に建立されました、丁度この信定寺の裏山が和田城です、参勤交代の大名も和田宿に立ち寄った際には此処信定寺に参拝したと云います。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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和田宿本陣 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
街道筋に戻り先に進むと交差点に突き当たります、この交差点から先が中町です、その脇に和田宿本陣が建っています、和田宿本陣は河内屋と同じく文久年間の大火により消失して皇女和宮の来宿に際して再建されました、その後明治期になり本陣は解体移築され残った居室棟は役所、農協事務所として使用されました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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資料館羽田野、旅館石合 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(旅館石合、 資料館羽田野、) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
和田宿本陣の道路の反対には文久年間の大火の後に建てられた現在資料館となっている羽田野家の家屋とその道路を挟んだ並びに長久保宿本陣石合家を祖とする石合旅館が建ち並んでいます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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和田宿脇本陣、旅館ながい | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(和田宿脇本陣翠川家) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中町の西端に和田宿脇本陣翠川家と旅館「ながい」があります、脇本陣翠川家もまた文久元年の大火で消失した後に再建されました、その正面に建つ出格子造の旅館「ながい」は2012年まで営業していました、近年改築後に再開するそうです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(旅館ながい) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中山道筋は此れより先下町に入ります。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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よろず屋 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
下町に入ると直ぐに江戸期に質屋と両替商を営んでいた「よろず屋」が建っています、土蔵造で商店家屋には火返しの卯建が備え付けられています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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高札場跡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
和田宿の西口付近には御触書などを掲げる高札場が建っていました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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中山道 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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