関東、温泉と旅行記 | 木曽方面 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鳥居峠を越えて藪原宿に入ります、薮原宿は江戸から数えて35番目の宿場町です、1843年(天保14年)には宿内の人口が1493人、家屋266軒、本陣、脇本陣1箇所づつ、旅館10軒でした、飛騨街道との追分に位地する事から大変賑わった宿場町でした。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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鳥居峠 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中山道の難所で知られる鳥居峠は標高1197mの峠道です、戦国期この峠道では幾度も合戦が行われ1582年(天正10年)には木曽義昌が織田信忠の軍と呼応して武田軍を破っています。 現在、その石畳道が復元されています。 |
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尾州御鷹匠役所跡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(尾州御鷹匠役所跡へのY字路、曲り角) | (尾州御鷹匠役所跡) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
峠道を下り市街地に入り500m程進むと坂の途中がY字路と成っています、そのY字路を曲がると直ぐに尾州御鷹匠役所跡の碑が立っています、尾州御鷹匠役所とは尾張藩の鷹の巣山の管理、鷹の飼育、調教を行う役所で木曽代官「山村氏」などの助力で運営されていました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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飛騨街道追分 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(中山道側) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾州御鷹匠役所跡のY字路から少し下ると飛騨街道(奈川道)との追分となります、そのまま直進すると中山道で西方向へ下る細い坂道が飛騨街道です、飛騨街道は野麦峠を越えて飛騨高山へ通じる道筋で馬の往来も厳しい程の険しい道のりでした、1911年(明治44年)に中央本線が開通すると岡谷の製糸工場へ向かう女工達がこの道を通ったと言います。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(飛騨街道側) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
薮原神社、極楽寺 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(薮原神社鳥居) | (極楽寺参門) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
飛騨街道の追分から300m程中山道を南へ進むと薮原神社の鳥居とその隣に極楽寺の参門が建っています、薮原神社は684年(天武帝9年)に創建され、極楽寺の参門は1698年(元禄11年)に建立されたそうです。 中山道筋は薮原神社の少し手前辺りから西方向に反れて薮原宿へ通じていたようです。 |
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薮原宿旧市街 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
薮原神社から少し戻り坂道を下った所の中央本線のトンネルを潜ると薮原宿です、此処で町並を抜ける中山道筋は南北に延びて南へ延びる道筋は宮ノ越宿へ向かい、北へ延びる道筋は先程の飛騨街道へ通じています(追分から坂を下った先)、北方向には現在も当時の面影を残す古い商家などが建ち並んでいます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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宿内の水場 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
薮原宿の旧市街周辺には所々に水場が設けられています。宿場時代の防火と生活用水を兼ねた水場です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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薮原宿本陣跡と飛騨街道と合流地点 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宿内を北方向へ進むと薮原本陣跡の碑が立っています、薮原本陣は木曽家の家臣「古畑十右衛門」の屋敷を本陣としたと云います、古畑家は庄屋、問屋、脇本陣を兼ねていました、本陣跡の碑から更に北へ進むと中央本線を渡る歩道橋が在ります、この歩道橋は飛騨街道との追分から少し下った所に位地してます、追分から飛騨街道筋はこの歩道橋辺りを下り宿内を抜ける中山道筋と合流していました、この辺りの中山道筋は現在の中央本線の西と東の二方向に分かれていたのです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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防火高塀跡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今度は反対の南方向へ進みます、先程のトンネルからの曲り角を過ぎて50m程進むと石垣が設けられています、この石垣は防火高塀跡です、薮原宿は1695年(元禄8年)に大火にみまわれ宿内は略全焼しました、その後文化年間にこの地に石垣を築きその上に土塀を立て防火壁としました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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お六櫛の店 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
更に宿内を南へ進みと薮原宿の特産品「お六櫛」を商う店が幾つか見られます、お六櫛は峰榛(カバノキ科)で作った櫛で大凡6尺ある事からお六櫛と呼ばれている(諸説あり)そうです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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高札場跡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宿ほ南端辺りに高札場の跡の碑があります、その先の中山道筋は西方向へ反れる細い路地です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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一里塚跡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
細い路地を進むと道は一旦河川の手前で途切れています、街道筋は河川を渡り更に先へと進んでいました、川を越えた辺りにまた路地が続いています、その道が中山道筋です、その道の先にC51蒸気機関車が展示してあり、その手前には一里塚跡の碑が置かれています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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一里塚跡から先の中山道筋 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(中山道筋) | (中央本線トンネル) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一里塚跡から先の中山道筋は東方向へ屈曲しています、そこからまた細い路地へ入り、路地の先でもう一度東方向へ曲がり現在の中央本線のトンネル辺りを通り国道19号線に合流していた様です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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中山道 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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