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 板橋宿~戸田の渡場  
         
         
   
 (荒川舟渡、戸田の渡場)  
         
  古代律令体制下の時代に東山道と云われる官道が都から美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国を経て陸奥国まで延びていました、それが何時の頃か江戸から板橋、大宮、蕨、熊谷、深谷、本庄を経て高崎で旧東山道と合流する支道が繋がり江戸期に旧東山道と支道を合わせて中山道、中仙道(現国道17号線)と成ったのです、江戸期に措いて中山道の宿場は六十九次に定められていましたがそれ以前、室町期後半の頃には街道に隣接する集落全てが宿場と成り関所又は木戸を設けて旅人から通行税を徴収していました、乱世の時代に入ると中山道は東海道と同様に関東から都まで一気に抜けられる主要幹線道として戦国大名から重要視され軍用道路として利用される様になりました。  

 
         
 板橋宿  
         
   
  東武東上線大山駅を降りて東に進み国道17号線を越えて仲宿に入ります、旧中山道と書かれた道路標識が立っています、此処仲宿は江戸期に板橋宿の中心街で本陣、脇本陣、問屋場なども此処仲宿に存在していました。
 板橋宿は平尾宿、仲宿、上宿の三宿に区分けされ江戸期には品川、千住宿、内藤新宿と並ぶ江戸四宿に数えられる程の大規模な宿場町に発展します、飯盛女(奉公人名目の遊女)も多数見受けられ興業なども盛んな遊宿でもありました。
 

 
         
 石神井川  
         
   
 標識道理に北に進むと石神井川に差し掛かります、鎌倉期から室町期にかけて石神井川流路には秩父党豊島氏が勢力張っていました、、豊島全盛の頃に板橋宿近辺はその氏族の板橋氏と滝野川氏が領有していたと考えられてます、中山道と河越道の合流する板橋宿付近は交通の要所であり古来より交易が盛んに行われ豊島氏とその氏族に繁栄をもたらし400年以上に渡り在地領主としての基盤をかためたのです。  

 
         
 板橋  
         
 
 石神井川には板橋と呼ばれる木造風に造られた橋が架けられています、板橋宿の地名はこの橋の名が由来と成っていました。  橋の脇に日本橋から2里25町33間の道標が立っていました、日本橋から約8,25kmです。  

 
         
 縁切り榎  
         
 
 街道の目印として植えられた樹齢数百年の榎でその下を通行すると不縁をもたらすと信じられ婚姻のさいは此処を避けて通行したと云われています。  

 
         
 志村一里塚  
         
 
 更に街道を進むと国道17号線と中山道は合流します、丁度国道17号線との合流点までが板橋宿です、そこから17号線沿いに北に進むと志村一里塚が在ります、一里塚は国道の左右に在り通常江戸期の街道筋の一里塚は街道両脇に植えられていました。  

 
         
 志村城址  
         
 
 一里塚から600m程西に志村城址公園が在ります、志村城は豊島氏一派の志村氏の城でしたが志村氏は1476年(文明8年)長尾景春の乱で宗家豊島氏を見限り太田道灌に付きます、志村氏は滝野川氏の同族で中世の頃は志村一里塚付近は志村氏の勢力下であったのでしょう、その後志村氏が衰退すると志村城は赤塚城を本拠とする武蔵千葉氏の城と成ります。  
 
 志村城は志村城址公園の南側の台地上に位地していました、現在台地上の熊野神社脇に土塁空堀が残っています、その熊野神社一帯が二の郭であったと云われています。  

 
         
 浮間舟渡  
         
   
 17号線に戻り更に2km程北上した東方向のJR浮間舟渡駅北口正面に浮間公園があります、公園内の浮間ヶ池は旧荒川で昭和3年の直線化工事が行われる以前の荒川です、工事以前の荒川流路は南北に大きく蛇行しながら流れていました、謂わば浮間ヶ池はその名残です。
 旧荒川流路の浮間ヶ池は当時郡境で池の西側舟渡村が豊島郡、東側の浮間村が足立郡でした。
 
 
 (旧荒川流路の浮間ヶ池)  

 
         
 戸田橋付近の荒川  
         
   
 また17号線に戻り少し進むと荒川の戸田橋に差し掛かります、荒川対岸に渡り戸田橋のたもとから100m程下流には戸田の渡場がありました、渡場は戦国期から船渡しが行われ江戸期に入ると近くの下戸田村が渡し舟の権利を持っていたと云います。  

 
         
 荒川を往来する廻船  
         
   
 中世荒川が入間川と呼ばれた頃から江戸期、明治期に掛けて荒川流路は荒川南方の新河岸川と並び廻船の水上交通路と成っていました、品川などの湊から廻船が比企、入間方面へと積荷を満載して頻繁に往来していたのです、1914年(大正3年)に現在の東武東上線の路線が池袋と田面沢間に開通すると廻船輸送は徐々に縮小されました。  

 
   
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